| エフエムひらかた紙芝居 | |
| 天の川七夕伝説の文章を基に、枚方市内の高校の美術部員たちが共同制作しました、大きな大きなジャンボ紙芝居です♪ |
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| 枚方津田高校作 | |
| 近頃は、夏の夜空をながめても、北から南へたくさんの星が集まり、川のように輝いているのが見られなくなりました。でも、町から少し離れた緑の多い所へ行くと、その美しい夜空が眺められます。この星空を、『天の川』と言います。中国では、ずいぶん古くから、この「天の川」と「七夕」を合わせた、「七夕伝説」の話が生まれ、日本にも伝わりました。 | |
| 枚方なぎさ高校作 | |
| 七夕伝説の話は、天の川の東に住む天帝の王女は、機で布を織るのが大好きで、周りの人から「機織姫」と呼ばれていました。姫が織り上げた布は、あまりにも素晴しいので、「天の衣」と呼ばれるほどでした。天帝も、「なかなかのものだ。沢山織って、みんなに喜んでもらいなさい。」と褒めるぐらいの出来ばえでした。 | |
| 牧野高校作 | |
| そのうち、機織姫も年頃になりました。天帝が結婚相手を色々探したところ、天の川の向こうに岸に、とても働き者を牽牛という若者がいることを知りました。二人を見合わせると気が合ったようで、早速、結婚させました。ところが、あまり仲が良すぎて、毎日、天帝のことも仕事のことも忘れて過ごすようになりました。牽牛は牛を飼う仕事を止めてしまい、機織姫も布を織らなくなってしまったので、天の世界では、大弱りです。天帝は、とうとう怒って、「仕事をしないのでは、だめだ。」と二人を別れさせ、牽牛は、元の所へ返されてしまいました。それからと言うもの、機織姫は、悲しみのあまり、すっかり元気がありません。その姿を見た天帝はかわいそうに思い、年に一度、七月七日の七夕の夜にだけ会うことを許しました。それからの二人は、毎年、この七夕の短いひと夜をまって天の川をわたり、楽しく語り合い、愛し合ったと言うことです。 | C |
| 枚方高校作 | |
| D | この「七夕伝説」の話に合わせたように、ずっとずっと大昔から、天空の「天の川」にそっくりな形をして流れている川がありました。その川は、「七夕伝説」が伝わってきたころは、「交野川」と言われて、四條畷の田原から始まり、岩磐の山々の間を通り流れていました。周りの山々には大きな岩石が沢山あり、花崗岩と言う白い岩石も混じっていました。花崗岩は、雨や風にあたり、長い長い間かかって少しずつ砕け、粒の揃った美しい白砂になり、やがて川に流れ落ち、川幅一面を真っ白に敷き詰めていきました。しかし、みんなの目にとまるようになったのは、それから何年、いや何百年もずっと |
| 大阪市立高校作 | |
| この天の川あたりには、大陸から渡って移り住んだ人たちが大勢いました。その人たちを中心に「七夕伝説」の話と地上の天の川とを結びつけると言う楽しい考えが浮かびました。「どうだろう。私たちでこの天の川に橋をかけては。」「七夕に、機織姫と彦星が、無事に会えるようにしてあげよう。」とやさしい思いや夢を膨らませて、橋をかけることにしました。その橋とは、天の川を渡る為、出発する港としてかける「天津橋」。次に、舟で渡る“舟わたり”、歩いて渡る“橋わたり”のどちらでもできる「逢合橋」。また、天気の悪い時や、川の水かさが増えた時には、かささぎ鳥に羽を広げてもらい、その背中をポンポンと渡って行けるようにした「かささぎ橋」の三つの橋で、どの橋にもこんな意味を込めて造りました。七夕の日は、自分たちで造った地上の天の川に架けた橋と、遠い古里の天空の天の川とがつながり、夢を叶えた喜びは特別だったでしょう。今では、それぞれの橋は丈夫な橋に造りかえられています。欄干に刻まれた昔の人の姿を見ながら渡りますと、その頃の様子や、橋を造った人たちの熱い思いが伝わってきて、深い感動を覚えます。また、天の川の上流には、「羽衣伝説」の「羽衣橋」も架けられています。 | E |
| 牧野高校作 | |
| F | これらの橋づくりについで、昔の人たちは、いっそう夢を膨らませ、 >星に関係のある場所をいくつも設け、行事を始めたりして、七夕伝説が地上で味わえるように、色々工夫して造っていきました。 まず、機物神社です。七夕の話が日本に伝わる前に、大陸から渡って来た人たちが大勢いました。 この人たちは“秦氏”と言う人を中心に、交野山(こうのさん)の麓を切り開いて桑畑を作り、蚕を飼い、糸を紡ぎ、機で布を織る仕事に励んでいました。そんな時に七夕の話が伝わると、 「機織姫が布を織る“機”と“秦氏”を組み合わせて、 『機物神社』と言う名前の社を建てよう。」と思いつきました。そうして、交野山(こうのさん) >に近い、天の川の東側に、「機物神社」が建てられました。 mso-fareast七月七日には、神社の境内に歌や夢を書いた短冊が竹笹に飾られて、 七夕まつりが賑やかに行われるようになりました。このお祭は今も引き継がれ、 空への夢は希望につながっているような気がします。 また、牽牛彦星は、天の川をはさんで西側に祭られ、機物神社と向かい合っています。 枚方市香里ヶ丘の観音寺跡の高台に、うつむき加減にどっかりと座っている牛の姿は、 いかにも牽牛らしく、川向かいの織姫をいつも見つめ、七夕の夜を待っているかのようです。 |
| 枚方津田高校作 | |
| また、奈良の都でも宮中では「乞巧奠 きつこうでん」と言う、七夕まつりの行事が行われ、 これは農家の盆まつりと季節が重なり、「七夕まつり」となって、 やがて、全国に広がって行きました。その次に、枚方・交野には、天の川をはさんで、 中宮(なかみや)・星が丘・星田」の地名が付けられました。この名前は、天空で明るく輝く一等星の北極星のある場所を指して言う事からと、 「中宮(なかみや)」は宮中に仕える女官の事を中宮(ちゅうぐう)と言う事からもきているそうです。 次に、天の神を祭った二つのお社があります。天の川の上流の「磐(いわ)船(ふね)神社(じんじゃ)」は、 神話時代の出来事から天の神が祭られ、「交野交祀壇(かたのこうしだん)は、桓武天皇が天の神の父上を祭ったお社です。 そして、もう一ヶ所、星田に「妙見宮(みょうけんぐう)・光淋寺(こうりんじ)・星の森」が、ある程度の距離をおいて、三角形にまつられています。これは、平安のはじめ、弘法大師と言うお坊さんが、 獅子窟寺(>ししくつじ)」でお経を唱えていると、天空から北斗七星が三ヶ所に分かれて降ってきたと言う事から、祭られたものです。 | G |
| 長尾高校作 | |
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このように、天の川の周りには、七夕と結びついた、いろいろな場所や行事が造られてきました。今では、枚方・交野だけでなく、日本全国で七夕の行事が行われています。「七夕伝説」が伝わった頃からは時も経ち、お祭の仕方も変わって行くかも知れませんが、いつになっても「七夕伝説が生まれた地」としての枚方・交野に伝わる昔の人たちの思いで造られた建物や行事は、大切に忘れないようにしていきたいものです。 |
| 枚方津田高校作 | |